一の谷公園とは?
義経が「逆落とし」を行ったとされる場所の近くにある公園です。この「一の谷公園」は、安徳帝の内裏跡として伝説が残っているところで、現在は公園として整備されています。「逆落とし」のごく近くにあるので、「逆落とし」に向かうときに寄って行くべきポイントです。
#2022年12月探訪
一の谷公園
須磨浦公園から一ノ谷町に上ってくると思っていた以上に街が大きくて驚きます。といっても、数百人の集落と思いますが、山の上なのでもっと小さい集落を想定してたので、私の想像以上に広い街でした。
一の谷公園は、子どものための遊具と史跡が混在しているバランスのいい公園です。
安徳帝内裏跡伝説地
「安徳帝内裏跡伝説地」
平家は福原が本拠地だったと思いますが、福原からみてこんな町外れの山の上に内裏があったのかどうか?安徳帝も一度はここに来たことがあったのかもしれません。一泊したとしても内裏跡なのでしょう。
ここに本当に内裏があったかどうかについては、諸説あるようです。そのためあえて「伝説地」という微妙な表現の石碑になっているのでしょう。
安徳宮
安徳宮です。きれいに祀られています。この日に限っては、人気(ひとけ)がない公園だったのですが、とてもきれいに整えられています。
安徳宮の前に立派な灯籠がありあます。この灯籠はモルガン灯籠というもので、明治に納められたものです。
モルガン灯籠
この一対の灯籠はモルガンユキ(京都の美妓「雪香」旧姓加藤ユキで、明治37年日露戦争の始まる直前にアメリカの大富豪モルガン家の御曹司ジョージ・デニソン・モルガンに熱望され国際結婚をした人。)が、このあたりが異人山と呼ばれた頃この東に住んでいた。
信仰心のあついユキは宗清稲荷・安徳宮の社前に二基の石灯籠を献納した。一基に加藤コト、モルガンユキと母子の名を並べて刻み、一基は明治44年9月10日と刻まれている。
平成13年(2001年)3月
史跡保存会
大鳥居
安徳宮の前に並ぶ鳥居です。小さな公園にしては、とても立派です。しかも、新しい。
阪神大震災後に、倒壊の危険があったものを復興したとのことです。また、このあたりは明治のころは異人館があったようです。今の三宮の山側と同じような感じだったのでしょう。この時代の偉人さんの家探しは景色重視ですね。今でもそうなんでしょうか。日本人とはちょっと違いますね。
復興 大鳥居
平成7年1月17日午前5時46分阪神淡路大震災。この近辺でも多くの家屋が全半壊、数名の尊い命が犠牲になった。震災前には280もあった世帯数が200以下に減少した。この大鳥居も大きなひびが入り、倒壊の危険にさらされた。幸いにも関係機関のご支援を得て修復することができた。
明治21年に神戸-姫路間に開通したJRの全身の山陽鉄道敷設技術者の異人館が点在していた。この大鳥居の前にも昭和40年頃まで立派な異人館があった。町の人々は、末長く記念館として保存を希望したが果たせず、代わりにここにこの大鳥居を建て町のシンボルとした。
左の公園の南側は、大正時代の世界的総合商社鈴木商店の大番頭 金子直吉氏の屋敷跡であり、今も関連企業の社宅となっている。
この大鳥居は、高い位置から夜の移り変わりを観て応援していくれている。
平成13年(2001年)3月
一ノ谷町二丁目自治会
真理胡弁財天
安徳宮の横の広々としたスペースに水がたたえられた石碑が祀られています。
「真理胡弁財天」と書かれています。
弁財天?
「安徳宮」と「真理胡弁財天」についての説明書きがありました。
◎安徳宮
御祭神 安徳天皇 (第81代)1178-1185
源平の戦で源氏に追われられた安徳帝は平家一門に奉じられて西走の途中、一ノ谷に内裏を置かれたと伝えれれている。この地に安徳帝のご冥福を祈るために祀られたのが安徳宮である。安徳帝は寿永4年(1185)下関壇ノ浦の戦にて祖母二位の尼(平清盛の妻・建礼門院の母)に抱かれ、8歳で海中に身を投じられた。
御神徳 子供守護 水難厄除 学業達成 年祭4月24日
◎真理胡弁財天
御祭神 真理胡弁財天(龍神)
安徳帝は平家物語にあるように「海の下にも都があります」との祖母二位の尼の言葉と共に千尋の底へ鎮まれました。海の下の都とは龍宮であって、龍宮の主は龍神であり、安徳帝のご守護神であると伝えられております。
御神徳 福徳開運 難病平癒 子授安産 諸願成就 芸能上達 年祭7月8日
平成13年(2001年)3月
史跡保存会
なるほど、「海の下にも都があります」と鎮まれた安徳帝と、龍宮城の主である龍神(真理胡弁財天)との繋がりでした。
しかし、安徳帝の話に触れるといつも悲しくなります。生まれた場所と時代が悪かったと言えば、それまでの話ですが、わずか8歳です。悲しい話です。
皇女和宮様の像
なぜかここには、皇女和宮の像が祀られています。
凛としていても物悲しいお顔です。
この像は、ここより山上へ300mの山の中にある寄手墳・身方墳の側に人知れず寂しくあられたのを平成12年12月にここにお移しした。
なぜ、この像が山中にあったのかは不明である。
和宮様は仁孝天皇の第8皇女で6歳にして有栖川宮熾仁親王(別荘が後の舞子ビラ)と婚約をされ、むつまじく育たれた。
しかし、幕末に、朝廷と幕府の関係を修復し国論を統一せしめるため、幕府の強い要請で和宮様は有栖川宮熾仁親王との婚約を破棄し、17歳で徳川幕府の第14代将軍家茂に嫁がれた。惜しまじな 国と民との 為ならば 身は武蔵野の露と消ゆとも
その後、有栖川宮熾仁親王総指揮の官軍が江戸幕府へ総攻撃をかけようとしたが、和宮様は嘆願し、江戸の町を戦火から救われた。
昭和3年に神戸各小学校に二宮尊徳像を寄贈した中村直吉氏は外遊で西欧の女性たちの質素で勤勉な姿にふれ、日本女性の伝統ある美徳保持をいつまでも願い、昭和9年に県一(神戸高校)、県二(夢野台高校)、市二(須磨高校)の三女学校に和宮像を寄贈した。
この像は、戦争中の金属供出から逃れたそのうちの一体だと思われる。他の像と比べ憂いを含んだ物悲しい少女の雰囲気が表れている。
この度、多くの方々のお力添えで、ここ安徳花壇の側に和宮様をお迎えすることができたのは非常に喜ばしい限りであります。
平成13年(2001年)3月
一ノ谷町2丁目自治会
安徳帝といい和宮様といい悲しい歴史です。また、この像も悲しい歴史を歩んできたようです。ここで安徳帝と和宮様が出会ったというのも縁と言えるのでしょう。
この一ノ谷公園は、史跡の保存状態もよく、清掃も含めて十分に管理されていることを感じます。また、花壇などもきれいに整備されており、地域の公園の鏡のようです。すばらしい公園です。
一の谷公園の利用案内とアクセス
利用時間 24時間散策自由
入場料 無料
「一ノ谷公園」へは市バスが便利です。終点「須磨一の谷」バス停から歩いて向かいます。須磨浦公園を通り抜けて坂の上にある一ノ谷町に上っていく歩行者の通路があります。こちらが近道です。
市バスの終点「須磨一の谷」バス停から「一ノ谷公園」まで歩行者用の通路を経由すれば500mほど、自動車が通行できる道路を経由すると700mほどですが、距離よりも標高差の方が重要な要素です。はかなりの標高差があります。心して歩きましょう。

最後に
「安徳帝内裏跡伝説地」となっている一の谷公園は、「安徳宮」「真理胡弁財天」「皇女和宮像」など見どころが多い場所です。「逆落とし」の近くですので、「逆落とし」を見るときは寄って行くことをお勧めします。

私の妄想ですが、この一の谷公園のあたりも戦乱の巷となり、激戦が繰り広げられたところだろうと思われます。残っているものが少ないので、分からないことだらけですが、こうして今でも供養されていることに心が滲みます。
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