戦の濱とは?
一ノ谷の戦いにおける塩屋口の激戦地と伝えれる「戦の濱」は、現在では須磨浦公園になっています。源義経が逆落としに攻め込んだところではないかと考えられます。
#2022年12月探訪
須磨浦公園の利用案内とアクセス
利用時間 24時間散策自由
入場料 無料
須磨浦公園へは、山陽電車の須磨浦公園駅が便利です。公園内に駅があります。また、JR須磨駅から平坦な道で1km程度しか離れていないところですので、歩いて行っても気持ちがいいです。
JR須磨駅から歩く場合、国道2号線を西に進みます。
このあたりでさえも山が海に迫っていることが分かります。国道の右側は一段上がって山陽電車が走っています。さらに一段上がったところにマンションが建っています。
須磨浦公園
パトカーが写っているところが、須磨浦公園東端のバスターミナルで市バスの終点「須磨一の谷」がここです。バスターミナルのすぐ後ろまで山が迫っていることが分かります。
須磨浦公園にたどり着くと、左の海沿いにJRの線路、国道2号線を挟んで須磨浦公園があります。この国道は、神戸と明石を結び交通量はかなり多いです。この日は、なぜかパトカーが多く見かける日でした。
一ノ谷町に上っていく道の入口です。
この先に安徳宮(安徳帝内裏跡伝説地)(一の谷公園)と「逆落とし」の現場があります。この道は凄まじい坂です。気を引き締めて上っていかねばなりません。歩いて登る場合は、近道もあるので、そちらをお勧めします。


戦の濱を通り過ぎて、須磨浦公園の正門です。奥に見える建物は須磨浦公園駅です。その2階はロープウエイの乗り場になっていて須磨浦山上遊園まで連れて行ってくれます。山の上に山上駅が見えます。いかに山が海に迫っているかこのことでも分かります。
ここにもなぜかパトカーが・・・・多いです。
見えにくいですが、入口のすぐ左側に小さく「敦盛塚」の案内標識もあります。

公園は、きれいに整備されており、散歩やランニングする人がたくさんいます。桜もきれいです。個人的にも花見に来たことがあります。きれいなトイレもあります。
戦の濱
公園の東端にほど近いところに「源平史跡 戦の濱」の石碑があります。
ここは一ノ谷の戦いでは、塩屋口の攻防地になりました。当時のこのあたりは砂浜だったのでしょうか?きっと、このあたりに平家の陣が敷かれていたのでしょう。一ノ谷から義経が逆落としで攻め込み、ここにいた平家はさぞ混乱し修羅の巷になったことでしょう。恐ろしい。
一ノ谷と戦の濱
「一ノ谷」は、鉄拐山と高倉山のの間から流れ出た渓流にそう地域で、この公園の東の境界にあたる。1184年(寿永3年)2月7日の源平の戦いでは、平氏の陣があったといわれ、この谷を200mあまりさかのぼると二つに分かれ、東の一ノ谷 本流に対して、西の谷を 赤旗の谷 と呼び、平家の赤旗で満ちていた谷だと伝えられている。
一ノ谷から西一帯の海岸は、「戦の濱」といわれ、毎年2月7日の夜明けには松風と波音のなかに軍馬の嘶く声が聞こえたとも伝えられ、ここが源平の戦のなかでも特筆される激戦の地であったことが偲ばれる。
神戸市パートナーシップ活動助成により作成 須磨浦通6丁目自治会
800年の歳月が流れようとも、「毎年2月7日の夜明けには松風と波音のなかに軍馬の嘶く声が聞こえた」とは、恐ろしい限りです。戦死者がいくらいたのか分かりませんが、そんじょそこらの心霊スポットより強力な場所です。
海側の国道からも「戦の濱」の石碑が見えます。
ここから見ても須磨浦公園の幅がとても狭いことが分かります。公園のすぐ山側は一段上がったところに山陽電車が走っています。奥の住宅はさらにはるか上の方です。この住宅は一ノ谷町に位置します。この一ノ谷町から義経は駆け下りてきたのではないかと思われます。

ついでに見つけた史跡
みどりの塔
みどりの塔は昭和16年(1941)「八絋一宇の塔」として建立されたものですが、昭和29年(1954)にみどりの羽根運動の事業として改修されたものだそうです。時代が変わるとなんとやら。平和側への変化ですので、これもよしとしましょう。
なお、「八紘一宇」とは、「全世界を一つの家にすること」で「日本の中国・東南アジアへの侵略を正当化するスローガンとして用いられた」と多くの辞書に記されています。
この塔の両側に石の地球儀が石柱に載っかっています。この写真は右側のものです。正常です。
こちらは左側の地球儀ですが、1995年の阪神大震災で落下してしまいました。丸くないので地球らしくないですが、石柱に載せているものなので完全な球はできません。
そんなことよりも、こんな巨大なものが落下するとは、おそろしいです。
説明文を見ると・・・
1995年1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源とするマグニチュード7.2の直下型地震(兵庫県南部地震)が阪神地域を襲い、5千余人もの方々が亡くなられるなど、甚大な被害をもたらしました。
この「みどりの砦」においても、囲壁の崩壊・石舗装のひびわれ・地球儀の落下などがありましたが、幸いなことに「薫風」像本体には被害がありませんでした。
この直径1.2m、重さ2.4tの地球儀を落下させた兵庫県南部地震は、まさに「地球」すなわち「わたしたちの世界」を根底から揺り動かした、言語を絶する出来事だったことはまちがいありません。
いま、わたしたちはあの忌まわしい震災の日々の記憶を失ってしまわないためにも、この落下した地球儀をしっかり見つめ直し必要があるのではないでしょうか。
改めて地震は怖いと感じます。義経じゃないですが、地震は奇襲で襲ってきますから、怖いです。
最後に
「戦の濱」は石碑が残るのみで、きれいな公園として整備されていることもあり、当時の形跡を残すものはありません。そのため、当時の光景を見るためには、想像を働かせるしかありません。この公園で戦闘が繰り広げられていたと思うと、恐ろしくもあり、歴史の大きな波を感じずにはいられません。
毎年2月7日の夜明けには松風と波音のなかに軍馬の嘶く声が聞こえるようなので、一度は行ってみようと思います。
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