平忠度腕塚とは?
平忠度(たいらのただのり)は
平清盛(たいらのきよもり)の末弟で、歌道にも優れ剛勇で知られた武将である。
寿永3年(1184)2月の一ノ谷の戦いにおいて敗れた大将
平忠度(ただのり)は、駒ヶ林指して落ちていく途中、源氏の武将
岡部六弥太忠澄(ただすみ)と戦い、首を討ち取ろうとしたところを、
忠澄の家臣に右腕を切り落とされ、この地に埋めたと伝えられている。
右腕を切られた
忠度はついに静かに念仏して討たれ、そのエビラ(矢を入れて背に負う道具)には、
「行きくれて木のかげを宿とせば はなやこよひの主ならまし」
という歌が書かれた紙片が結ばれていたといわれている。
忠度は、歌に優れており、『千載和歌集』以降の勅撰和歌集に11首が入集している。
文武両道に優れ「平家一門の花」と言われていた。
忠度が討たれた際、「文武に優れた人物を」と敵味方に惜しまれたという。
忠度は、明石で討たれたという説もある。
平忠度腕塚
「平忠度腕塚」は神戸市長田区の住宅地の中にあります。

住宅の中に入り込んでいるような状態である。土地区分はどうなっているのだろうか?なんにせよ、腕塚が建てられたのが先だろう。

正面から見ると、十三重塔が屋根を突き破って建てられているように見える。

石灯籠はしっかりしたものに見える。モルタルで固めたような跡もある。

石灯籠には「忠度塚」と銘じされている。

左の石碑は「腕塚堂薩摩守忠度卿御廟所」と読めるが、右は難しい。歌のようだが、読めない。将来は、汚れることも想定して、太く大きな文字で記して欲しいと思うが、贅沢だな。
腕塚堂(平忠度塚)
平忠度(たいらのただのり)は平清盛(たいらのきよもり)の末弟で、歌道にも優れ剛勇で知られた武将でした。
源平一の谷の合戦(1184年)のとき平忠度は一ノ谷の陣の大将でしたが、破れて駒ヶ林指して落ちていく途中、源氏の武将岡部六弥太忠澄(ただすみ)と戦い、首を討ち取ろうとしたところを、忠澄の家臣に右腕を落とされてしまいました。忠度はついに静かに念仏して討たれ、そのエビラ(矢を入れて背に負う道具)には、
「行きくれて木のかげを宿とせば はなやこよひの主ならまし」
という歌が書かれた紙片が結ばれていたといわれています。
この腕塚は忠度の切り落とされた腕を埋めた所と伝えられ、腕、腰、足の痛みがなおると人々から信仰されています。
長田区役所

十三重塔に近づいてみると、なかなかに重みのある高さを感じる。高いです。5mはあると思います。

十三重塔の足元には「平朝臣薩摩守忠度卿御廟所」の銘があります。
榊と花が活けられていました。
こうして源平史跡を歩いてみて感じますが、どこもきれいに整備されています。様々な時代の史跡がありますが、朽ち果てたところもたくさんあります。800年も前の史跡をきれいに整備して残すことは簡単なことではないと思います。

このようにとても清掃が行き届いていることが分かります。すばらしいお堂です。

手水に水はありません。
コロナ問題もありますが、参詣者が少ないことが理由なのでしょう。どうしても使いたい人は、水道の蛇口をひねればいいですね。
平忠度腕塚の利用案内とアクセス
拝観時間 24時間かもしれないが、住宅地の中にあるため、9-17時に伺うべきであろう。
拝観無料
神戸市長田区の住宅地のなかに取り囲まれているように位置しています。よくよく注意しないとたどり着けません。
なお、車で近づくことは不可能です。以下、経路をまとめます。

幹線道路の高松線の南側の少々古ぼけた看板に気づけば、この通路の先の
平忠度腕塚にたどり着きます。
高松線から南へわずか60mということですが、もう少し距離がある気もする。気のせいかな?
古びた道標もありますが、その下には鳥居の絵が書かれています。
こんなところに粗相をする酔っ払い(シラフで?)がいるのでしょう。罰当たりなものです。

十三重塔の絵がほとんど消えかかっているのが、残念。
平忠度公を祭る腕塚堂
場所 長田区駒ケ林町4丁目(これより南60m下る)
由来 平相国清盛の弟薩摩守忠度公、源平一ノ谷合戦いて岡部六弥太忠澄に敗れこの地にて戦死す。依而依地を廟所として祭る。特に切り取られた片腕を埋めた墓碑を腕塚と称して永く信仰の対象とした。何時の代にか腕、腰、足の痛みあるものこと墓石を擦れば直ちに快感を覚え全治に向かうとして参詣者の足が絶えない。
毎月7日は命日とて特に賑わう

自転車や原付きが通路に並んでいます。フェンスにぴったりよけているところを見ると、ここは車が通るのだろうか?車が通るとすればかなり厳しい道幅である。
忠度腕塚へは、突き当りの白いアパートを左に曲がります。

正面のアパートの左端に気づかないほどの小さな道標があります。
「うでづか」と読めます。

近づいてみると「←うでづか」とあります。分かりやすい!

かなり狭い通路です。道幅1.5mほどでしょうか。こんなところを通らなければなりません。自転車でも厳しい道幅です。この日は人通りも少なく、参詣者は私だけでした。生活感がありつつも物悲しい雰囲気である。

狭い道を進んでいくと、急に土地が開けます。単に
腕塚堂の前に空き地があるだけなんですが。
一般住宅のなかに
腕塚堂がある感じです。立地の詳細はよく分かりません。
あまり人がいなくて、とても物悲しい雰囲気を感じます。
勝手な深読み
腕塚町に腕塚はない

神戸市長田区の
「平忠度腕塚」は、住宅街の中にある静かな史跡である。
その名を冠した
腕塚町が長田区に実在する。平忠度の腕塚から取ったのだろうが、
実際に忠度腕塚がある場所は、長田区駒ケ林町である。なお、
忠度胴塚も腕塚町ではなく長田区野田町にある。
この腕塚町と腕塚の場所のミスマッチはどのようにして起こったのだろうか?胴塚はさておき、腕塚町と腕塚の位置が異なるということはどちらかが間違っているのであろうか?腕塚町は移動しそうにないので、腕塚が移動したのか?そういうことはあまりなさそうな気がするのだが・・・
なぜ胴塚と腕塚が別々に存在するのか?
忠度は腕を切られた後に胴塚の位置まで逃げたのか?
言い伝えでは、
忠度は源氏の武将
岡部六弥太忠澄(ただすみ)と戦い、首を討ち取ろうとしたところを、
忠澄の家臣に右腕を切り落とされ、右腕を切られた
忠度はついに静かに念仏して討たれたことになっている。
となると、腕塚と胴塚は同じ場所にあることが普通であるが、首実検のために(?)、胴だけ運んだのか?全然、読めない結果になっている。
大混戦の戦乱かつ800年の時を経るとこんな結果もさもありなんというやつだろうか?
ちなみに、明石で討たれたという説もある。この説をとると、一の谷で待ち受けていた
忠度は西から攻めてきた源氏を突破して明石に抜けたことになるが、敗れた平家が明石に進軍できるとは思えず、これは信じがたい。
唱歌「青葉の笛」

唱歌「青葉の笛」は、平敦盛を歌った有名な曲であるが、この2番は
平忠度が歌われている。
更くる夜半に 門(かど)を敲き
わが師に託せし 言の葉あわれ
今わの際まで 持ちし箙に
残れるは「花や 今宵」の歌
前半は、
木曽義仲の進軍により都落ちした
忠度が京に戻り歌の師である藤原俊成に、近々編纂される勅撰和歌集のために自分の歌を託したことが歌われている。後半は、一の谷の戦いで
忠度が討たれた時に箙(えびら)の中に残っていた歌が、「花や今宵の主ならまし」であったことを歌っている。
歌になるほど愛された武将であることは間違いない。
須磨寺境内に青葉の笛の歌碑があります。

【須磨寺】敦盛首塚をはじめ青葉の笛など源平ゆかりのお宝を見ることができます
須磨寺とは?須磨寺(正式名称:福祥寺)は、平安時代に建立したとされ、豊臣秀頼が片桐且元を奉行として本堂を再建するなど、古くから由緒ある寺院です。しかし、この寺が最も著名である理由は、源平合戦ゆかりのお宝が数多くあることです。代表的なものをあ...
キセル乗車
忠度の読みが
「ただのり」ということだけで、「無賃乗車」を連想し、いわゆる「キセル乗車」することを
忠度の官名から
「薩摩守(さつまのかみ)」と呼ぶことがあった。
とてもけしからん謂れであるが、センスがある話でもある。令和の人に
忠度と言っても通じないことが多いと感じるが、昔の人は学のレベルが高かったといつものことながら感じます。
なんにしてもけしからん謂れではある。
忠度もこんなことに名前を使われては浮かべない。
痛みが治る
案内板によると、腕塚の墓石を擦れば、腕、腰、足の痛みが直ちに快感を覚え全治に向かうという言い伝えがあり参詣者の足が絶えないとのことである。私が行ったときは、参詣者の足が絶えないというか私しかいないという状態であったが、毎月7日は命日で特に賑わうということらしい。7日に行って確かめる必要がある。
しかし、切り取られた腕を祀っているところから、腕などの痛みが治るに繋がるとはすばらしい発想の転換でる。腕塚も時代が変われば、なんとやらである。
最後に

信仰があついらしい
平忠度腕塚のレポートでした。風流武勇の
平忠度の最期の地として源平ファンには欠かすことができない史跡です。物寂しい雰囲気ととても綺麗に清掃整備されていることが印象に残りました。目をつぶれば一の谷の合戦を思い巡らせる静けさを存分に味わいたいです。
住宅地にありますので、大勢でぞろぞろ訪ねたり、大声で話をするなど控えましょう。源平ファンは、ミーハーじゃないのでそんなことはしないと思いますが。
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