馬の足形岩とは?
藤戸合戦に挑む佐々木盛綱が馬で駆け上がったときに馬の足がめり込んで残ったと言われる足形が残った岩があります。馬の足形が岩に残っていることなど信じられないことでですが、確かめに行ってきました。
馬の足形岩

岡山市営東山墓地の中にあります。
見渡す限り墓、墓、墓・・・足形岩の周りはすべて墓・・・
とにかく、800年後の現代では、勇ましい足形が付けられた岩は墓場の中になってしまいました。佐々木盛綱じゃなくてもびっくりです。

墓の中を歩くこと数分。墓しかないので、目印がないに等しい。案内板と位置情報を頼りに歩いていくときれいな看板を発見しました。そのすぐ横が足形岩です。
墓の中に埋もれています。一面墓場なのに、足形岩だけが墓場の中に露出しています。残念ながら、足形岩の左隣の墓は手入れが行き届いておりません。なんとかならんものでしょうか?
馬の足形岩(伝説)
源平合戦に出陣した佐々木盛綱が馬を馳せてこの岩を飛び越えたとか、この岩山に立って藤戸海峡を見渡した等の伝説があり、岩の表面にできた馬蹄形のくぼみを盛綱の愛馬の足形と呼んでいる。
なお、前の小池はそうた池又血の池と呼んでいた。
後ろの丘は網浜臼山古墳(前方後円墳)で南100メートルほどのところに平井城(とりで)があったと伝えられている。
平成九年十月吉日
平井学区コミュニティ協会

馬で駆け上がって藤戸海峡を見渡したのならば、看板の後ろ側から駆け上がったと思われます。後ろ側から見た足形岩がこの写真です。残念ながら、イメージが湧きません。足形岩の先に見える竹林の向こう側は地形の段が下がっているので、そこはすでに海だったのかもしれません。だとすると、海岸に面した場所にあった岩だったのかも?とう気がしてきます。そうであるならば、ここに馬を立てて藤戸海峡を眺めたことも頷けます。でも、藤戸海峡は遠い・・・

写真の中央右のくぼみが馬の足形です。
海に向かって足形が細く尖っています。
馬が踏み越えた跡というには先が尖り過ぎのような?いや、この足形を見ていると、足でガッと駆け上がったとするならば、海側ではなく山側に向かって飛び越えた足形になっていると考えるのが自然です。走ると、進行方向後ろ側に足形が延びるのは自然ですからね。岩が削れるかどうかは別として。
ということは、
佐々木盛綱が、竹林の方で藤戸海峡を眺めた後に、藤戸へ向かうために勇ましくもと来た道を戻っていくときに岩を駆け上がったときに付けた足形というのが、正解なのかもしれません。

私の足と比べてみました。馬の足形は人間より小さいと思っていますが(違うのかな?)、馬にしてはかなり大きいことが分かります。かなり大きい馬だったのでしょう。
足形岩は、あまり見どころというほどでもない気がします。だいたい、馬の足形が岩にめり込むとは凄まじすぎます。北斗の拳の黒王号でもそんな話まではなかったのでは?
そうた池(血の池)

足形岩の看板の前も奥も墓しかありません。すいません。そうた池(血の池)というのが、どこにあるのかまったく分かりませんでした。すぐ前にあると看板には書いているのですが、まったく見当たりません。池は埋められて墓になってしまったんでしょうか。
網浜臼山古墳

馬の足形岩の公報にある前方後円墳である網浜臼山古墳に行ってみることにします。この古墳にも墓が建てられまくっています。先に住んでいる(埋葬されている)というのに、勝手に(?)上に住まれては(埋葬されては)、先に住んでいる人が文句を言ってそうです。そのあたりは整理されているんですかね?あの世で揉めているのではないかと心配になります。
しかし、この古墳は、800年前に佐々木盛綱も目にしているはずなのです。そのときは、ただの小山にしか見えなかったのかもしれませんが、そう思うと、なかなか味わい深いものがあります。

古墳の上に登ってきました。上に登っても墓だからけです。このあたりは、空いている土地は墓にされるようです。一番大きな墓?は古くてなんの墓なのかよく読めません。

古墳に登ると遠くに岡山国際ホテルが見えます。しかし、どこを見ても
見渡す限り墓場です。なかなかの景色です。我が家の墓はここにはありませんが、墓参りに来たとして、自分の家の墓にたどり着けるのだろうか?という心配になるほどの墓場です。
平井城(とりで)
足形岩から南に100メートルほどのところにあると説明があった平井城(とりで)を探してみます。正直、断定できそうな場所はありません。

たぶん、この茂みあたりじゃないだろうか?方位といい距離といい・・・?ここだけ竹林になっていないし。
写真に見える石段を登っていくと、さらに通路の段の上に石碑らしきものがありました。しかし、そこには道が繋がっていません。一周しても登り口が見当たりません。墓参りをする人は、どうやって登っているんでしょうか?もしかして、とんでもない掘り出し物があるかもしれないと思い、強引に崖をよじ登りました。

なんとか登りきりました。バケツを持って登ることはできないレベルです。上には墓が3つありました。墓石もズレたり埋まっていたりで読めません。一つだけ読めないことはないのですが・・・

天明四(辰甲)年六月廿一日
これだけははっきりと読めました。墓石自体は新しいように見えるんですが、天明年間のもののようえです。1781年から1789年まで続く天明の飢饉で知られている元号です。200年以上前のもののようには見えません。
しかし、平井城とは関係なさそうです。平井城はいつの時代の話なのでしょうか?

この平井城と思われる場所からの眺めです。正面の山が児島湾の先の児島半島です。写真の右の方が藤戸海峡の方向です。写真右側の竹林の方向になる感じです。見えません。800年前はよく見えていたのでしょうか?といっても、20kmほど離れていますので、ここから眺めたとは思えません。ほんとにここに来たんですかね。来たのかもしれないし、来ていないかもしれない。馬の足形岩に至っては・・・
馬の足形岩の利用案内とアクセス
岡山市営東山墓地の中にあります。お墓参りをする人に混じって見学する感じになります。彼岸の時期は避けたほうが賢明です。
拝観時間 24時間かもしれないが、墓地の中にあるため、暗くなると怖いし道に迷いそうです。
拝観無料
山陽自動車道「岡山IC」から20分ほど、岡山電気軌道「東山駅」から徒歩18分ほどです。駐車場もあります。
最後に

佐々木盛綱が馬で駆け上がった跡と言われている
馬の足形岩のレポートでした。現在の足形岩から藤戸海峡を望むことができませんが、少し歩けば児島湾が見える見晴らしがいい場所もあります。藤戸海峡を望む気分で墓場から眺めてみると佐々木盛綱の気持ちが分かるかしれません。しかし、足形岩の周りは墓だらけです。というか、足形岩自体が巨大な墓地の中に埋もれています。なかなかシュールなものです。
墓場にありますので、大勢でぞろぞろ訪ねたり、大声で話をするなど控えましょう。源平ファンは、ミーハーじゃないのでそんなことはしないと思いますが。
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