笹無山とは?
藤戸の戦いは、佐々木盛綱が馬に乗って海に入り、浅瀬をつたって平氏の陣に乗り込んだことを皮切りに源氏の勝利に終わった戦いだが、この
佐々木盛綱が漁師の若者から浅瀬を聞き出したことからこの手柄は始まる。
しかし、若者から浅瀬を聞き出した佐々木盛綱は、ほかの武将に浅瀬のことを知られることを恐れて、この
漁師の若者を殺したのだ。
歌川国芳 (1798–1861) による錦絵
なんてひどいやつだろう。戦乱の世は、こういう非道をするやつが多いものだ。自分の手柄のためには、他人の命などなんとも思わない。漁師殺しの話は、現代の感覚ではとんでもない話なのだが、消えてはいないもののかなり薄まっている。しかし、海に乗り入れて平家を破った武功は800年のちの令和になっても語り継がれている。
だが、殺された方はたまったものではない。殺された漁師の若者の母親は、半狂乱となり、
「佐々木憎けりゃ、笹まで憎い」と「佐々木」と音が同じ
「笹」を残らず引っこ抜いたのだ。この笹無山は、この母親がすべての笹を引っこ抜いた跡の小山である。
泣ける話だ。
さすがの佐々木盛綱も、のちにこの話を聞き、若者の霊を慰めるために写経をしたり、お堂を立てたりしたらしい。
笹無山

「笹無山」と呼ぶにはあまりに小さな丘である。現代でも笹は生えていない。抜いている人がいるのかもしれないが、母の怨念は未だに続いているのだと感じる。
日本で一番低い山として有名な天保山の標高は 4.53mなのだが、笹無山のほうが低いだろう。笹無山も「山」として認識されているのだから、由来と一緒に周知したら日本一の称号も得ることができるのではと感じた。
※日和山(宮城県仙台市)は東日本大震災の影響で変化し標高3mとなり、天保山は、日本で2番目に低い山となった。(
Wikipedia)

令和4年に新たに建てられた石碑
現代の世だからこそ、母の憎しみに共感する人も多く、新しい石碑が建てられたのだろう。
笹無山
藤戸合戦で渡海先陣の偉功をたてた武将のかげで、名もない老母の嘆きをこの小山は秘めている。
船のない源氏は攻めあぐね、対岸の平氏 の陣をみつめるのみであった。佐々木盛綱 は浜で思案していると、 藤戸の海を自分の庭のように熟知している浦の男にであった。彼は老いた母と二人で暮らしていた。男は盛綱の求めに応じ、一条の浅瀬があることを教えた。同行してくれれば褒美をとらすとの網のことばを信じ、海中に入り目印の笹をたてながら先にたって案内した。
しかし彼は再び帰ってはこなかった。彼の口から浅瀬を他の武将に語られるのを恐れた盛綱は、無慈悲にも人知れず斬り捨て海中に沈めたのである。
このことを知った老母は半狂乱となり、佐々木と聞けば笹まで憎いと笹をむしり取り、恩を仇で返した盛網の残酷なしうちをのろった。老母の怨念が宿ったのか後の世まで、この小山には笹がることがなかったという。
藤戸史蹟保存会

笹無山から平家本陣があった山を望む。
右手に見える橋脚は、瀬戸中央自動車道路。道路には盛り土もあるので、見晴らしが悪くなったが、おおむね田畑が広がるだけの平原である。このあたりがすべて海であったという想像はそう難しくはない。確かに平氏本陣は、そう遠くないように見える。

佐々木盛綱が海に乗り出した乗出岩の方向を望む。正面に見える山を越えたところに乗出岩がある。周囲は、田畑が広がる平原に山がいくつか見えるという景色だ。
笹無山の利用案内とアクセス
笹無山は、JR瀬戸大橋線の茶屋町駅から西に2.5kmほどのところにあり、住宅と田畑が点在する地域です。
拝観時間 24時間可能だが、周辺に民家があるので、朝晩は行ってはいけないところだろう。
見学無料
最後に
藤戸合戦で武功を立てた佐々木盛綱の非道によって殺された若者の母親の怨念がこもる笹無山のレポートでした。
行ってみても気にもとめないような丘のような小山であるが、こうした由緒を知ると母親の怨念を感じずにはいられない。佐々木盛綱の没年月日は不詳だが、神様はいるのできっと天罰が下ったことだろう。
平和がいいなあと思います。
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