清盛塚は清盛の墓ではない?
気になる清盛塚に行ってみた。兵庫運河にもほど近く、このあたりは平家の史跡が散在しているあたりだ。しかし、大正時代の調査によりこの清盛塚は平清盛の墓ではないことが判明している。
清盛塚
清盛塚が兵庫運河にほど近いところにある。
清盛塚全景。十三重塔が目立つ。十三重塔の右に清盛像が立つ。
「清盛塚」の看板がなぜかピンク色。赤地が褪せただけ?
同じ敷地内に向かいの焼肉屋の駐車場の看板が掲げられている。どういう状況なのか分からないが、焼き肉と清盛は相容れない気がする。
海に向かって両手を胸の前にいだき落ち着いた表情である。こうした像は、実物と似ているかどうかではなく、作った人が見ていた姿やこうあってほしいと思う姿を現したものと読んだことがある。写真でさえもそのように写るものらしい。この像は、昭和の作とのことだが、清盛はこうした落ち着いた姿だったのかもしれない。
十三重塔
近づくとなかなかの高さだ。阪神大震災のときに崩れなかったのだろうか?
清盛塚十三重塔
元約西南六間の所在地を連続した●砂●の上に立てり都市計画道路開通のため、
この塔を撤去する必要あり。大正12年9月27日設斎供養10月13日解塔調査の●塔辺にて発見せる。
●九輪を復元し●建●へすしてここに移す。かつ●塔下新道路面に石標を樹つ。大正12年10月 神戸市役所
分かるかぎり文字起こししました。難しい。
県指定文化財 清盛塚石造十三重塔
指定年月日 昭和35年5月12日
所有者・管理者 神戸市この石塔は古くから清盛塚と呼ばれ、北条貞時の建立とも伝えられています。当初は現在地より南西11mにあり、平清盛の墳墓とも言われていましたが、大正時代の道路拡張に伴う移設の際の調査で、墳墓でないことが確認され、現在地に移設されました。
石塔は、 高さ8.5m、 初層は一辺145cm、最上層 は一辺88cmを測り、基礎部台石東面の両脇に「弘安九」「二月日」の銘があり、弘安九年(1286年)に造立さ れたことがわかります。
石塔の隣には、神戸出身の彫刻家である柳原義達の作になる平清盛像が建てられています。今なお清盛塚は、地域の人々によって敬われ、大切に守られています。
平成23年12月
神戸市教育委員会 岡方協議会
ということで、墓じゃないらしい。墓じゃなければ、もともと何だったのだろうか?単に供養塔だったのか?
琵琶塚
巨大な琵琶塚の石碑
少なくとも手前の標識は不要であろう。
琵琶塚
清盛塚と小道を挟んで北西に平面形が琵琶の形をした塚があり、琵琶塚と呼ばれ、江戸時代から琵琶の名手平経正(つねまさ)の墓と信じられていました。平経正は清盛の弟経盛(つねもり)の長男で敦盛(あつもり)の兄にあたります。
明治35年(1902) 有志により琵琶塚の碑が建てられましたが、 大正時代 の道路拡張の際に、清盛塚とともに 現在地に移設されました。
平成23年12月神戸市教育委員会 岡方協議会
結局、ここもなんなのだろうか?
ふたつもあったということは、本物だったのではないだろうか?墓泥棒などにやられたのだろうか?
清盛塚と琵琶塚の隣は、きれいで大きな住吉神社の鳥居があります。えらく新しくて違和感を感じた。
兵庫運河
清盛が大改修した大輪田泊は、清盛塚のすぐ横です。このあたりは、兵庫運河となる現在も使われまくっています。
清盛塚の利用案内とアクセス
拝観時間 24時間
拝観無料
地下鉄海岸線中央市場前駅から600mほど。観光客もそう多くないところです。
最後に
源平ファンにとって、訪れずにはおけない兵庫運河近くの「清盛塚」と「琵琶塚」は、大正時代の調査により平清盛の墓ではないことが判明しているため、今となってはよく分からい史跡です。向かいには焼肉屋があり、思いを馳せるには難しい場所です。しかし、清盛塚として現代まで残っているということは、本当はなにかがあると考えて差し支えないと思われます。だからこそ残っているのでしょう。
焼肉屋の隣には、清盛公がお茶を飲んだという真光寺があります。

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