【真光寺】僧がお茶をたてて清盛公に献上したと伝えられる井戸が現在も残っている

大輪田泊
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清盛公が飲んだ御膳水の井戸

清盛塚の向かいにある真光寺は、清盛公と縁があり、現在にも残っている井戸がそれである。

真光寺

真光寺の入口

人の気配がないのに、重々しさと風格を感じる。歴史を重ねて、こういう雰囲気が漂うのであろう。左には、「一遍上人示寂の地」の石碑がある。和田岬にあるとは知らなかった。

 

真光寺の境内案内図

とても分かりやすい。見どころは多い。

真光寺(築造伝説)

 時宗の開祖である一遍上人が、 全国を遊行中に亡くなった示寂の場として有名で、 境内には廟所があります。 寺の堂の一つに「広池山竜蔵院」があり、大竜の竜骨を納めていたと伝えられています。 経ヶ島築造のとき、住んでいた大池を失い祟りをなしましたが、堂を建てて大日如来を祀ったところ解脱昇天したと謂われています。 また福原遷都の際、都の周囲に祀られた七弁天の一つである真野弁天は、この大日堂にあったと謂われています。

御膳水の井戸

御膳水の井戸

中を覗いてみると水面が見える。1mぐらい先かなあ。是非とも飲んでみたかった。塩っぱいかもしれないけど。

 

平清盛公 御膳水の井戸

 平清盛公が当寺に弁財天を勧請した時に、僧がこの井戸の水でお茶をたてて献上したと 伝えられています。

西月山 真光寺

観音堂

観音堂は、かなり新しいと思ったが・・・?

 

平清盛公勧請 弁財天(真野弁財天)

 承安二年(一一七二年)に平清盛公が安芸の国の厳島明神を勧請して祀った七弁財天の一つが当寺にありました。

真野弁財天とよばれて大切に祀られ、人々の信仰を集めていました。しかしながら、神戸大空襲で真光寺が焼失してしまい真野弁財天も今はありません。

弁財天はインドの古代神話に登場するサラスバティ(水を持つもの) という神様です。水の流れは芸能とも結びつき音楽の神様としても信仰されています。

真光寺の弁財天は真野弁財天焼失後、インドより招来されました。インドの弦楽器シタールを奏でています。

西月山 真 光 寺

なるほど。そういうことか、やっぱり戦争はいかんな。大事なものが失われる。源平合戦も戦争なのだけど。

一遍上人廟所

一遍 適上人廟所

時宗開祖一遍上人(1239-1289)は、鎌倉時代の終り頃伊予守護職河野家の出身で幼にして出家、法然―証空-性達-一遍と浄土宗西山流を学ばれ、のち予州窪寺の修行、紀州熊野本宮の参籠によって絶体絶力の念仏の深意を領解し、衆生救済のため人々に念仏を勧め「南無阿弥陀仏●●●●」のお札をくばり乍ら時衆を引きへ、日本全国を16年間にわたって行脚された遊行僧で御座います。目録に入る数廿五万余その他数知れず人々に念仏結縁し、最後にこの地和田御崎観音堂に於て正応二年八月廿三日御年51歳で安らかに入寂なさいました。「一代の聖教みなつきて南無阿弥陀仏になりてぬ」とて所持の経典を焼きすてられ、又「我がなきがらは野に捨てけだものなど施こせよ」のお言葉もありましたが、多勢の信者の人達によって荼毘にふされ、手厚く供養されましたのが、現在の五輪塔で御座います。尚元禄年間に現在の廟所に改造されて居ります

(昭和四十六年に兵庫県より史跡に指定)

 

宗祖御詠歌

旅ごろも 木の根かやの根 いづくにか
身の捨てられぬ ところあるべき

西月山 真光寺

すごい人ですね。「けだものに施せ」はなかなかすごいです。

一遍上人の廟所

雰囲気が違います。人々の信仰がそうさせるのか。一遍上人がそうさせるのか。理由は分かりません。

中は、重々しい雰囲気というか、荘厳かな。五輪塔は、地震で倒壊し遺骨が散乱したとのこと。一遍上人本人のものだと言われている。

無縁如来塔

ここもなかなかの迫力がありました。圧倒感と言うか、なんとも言えない雰囲気です。やはり見えない力は存在すると思います。私ごときに証明することはできません。

15段以上もある塔は、なかなかのものです。

津の道

関西電力柳原変電所の壁に平清盛と高田屋嘉兵衛の大きな絵が書かれている。このあたりは日本の先進地(大都会?)だったんだよなあ。少なくともいまよりは活気ある街だったろう。こういう壁画はいいですね。考えた人は偉い。

 

津の道を歩いてみる

 平清盛は、この地大輪田泊で中国宋と交易し、一遍上人は、人々の平穏を願いながら、この地で臨終の時 を迎えた。

高田屋嘉兵衛は菜の花の沖よりこの地に来て、欲におぼれず、国を愛し海を愛する比類ない豪商となった。勝海舟、伊藤博文もこの地に留まり、日本の近代を思い情熱をそそいだ。

津の道は、これらの人々の生命の輝 きを今に伝えている。

二十一世紀に生きる子どもたちが、ドラえもんの「どこでもドア」と同じよ うに、いつでも歴史の扉を開き、未来に夢と希望を持つことを願ってこの壁画は制作されました。

二〇〇〇年三月

制作者 神戸市、岡方協議会、明親校区自治会連合会、須佐野中学校、明親小学校
協 力 関西電力株式会社

この「津の道大壁画」は津の道周辺の史跡、名所、兵庫津のゆかりの人達の案内を、地元各種団体の善意と、関西電力(株)の協力 により、須佐野中学校と明親小学校の児童生徒が構想を練り、 自らの手によって制作された壁画です。

清盛塚の利用案内とアクセス

拝観無料

地下鉄海岸線中央市場前駅から600mほど。観光客もそう多くないところです。清盛塚の向かいです。

最後に

平清盛像全身

清盛塚を見に行ったときに、覗いてみたら清盛ゆかりの寺でした。ついでと言ってはなんですが、ついでに覗いてみてください。このあたりは、平家ゆかりの史跡が多いので、散策も悪くありません。

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