【能福寺】清盛公が剃髪出家し、その墓がある清盛ゆかりの大仏がある寺

大輪田泊
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清盛の出家

あまり有名でないが、清盛公が出家した寺がこの能福寺である。清盛公の墓である平相国廟もこの能福寺境内にある。真偽のほどは置いておいて、このあたりは平家ゆかりの地である。この寺でなくともこのあたりに墓があることは間違いないと思う。

能福寺

天台宗能福寺

あまり人はいない。このあたりでは、兵庫大仏がある寺としてまあまあ有名。

そんなことよりも(?)この寺は、そこまで広くないにも関わらず、京都以西では唯一の旧院家(いんげ)の格式を今に留める寺である。また、ジョセフ・ヒコによる日本最初の英文石碑や兵庫の豪商北風正浩顕彰碑、明治元年の神戸事件で切腹した滝善三郎碑など見どころが多い。

平相国廟

平相国廟手前の案内看板

 

平相国廟は、境内に赤いのぼりが目立つ一角にある。

 

能福寺内の太平山八棟寺殿に平相國廟が造立されたと伝えられているとのことで石碑に「八棟寺殿」と今も刻まれている。

 

大きく3つの石塔がある。

中央の十三重塔が清盛公の墓

左の九重塔は、清盛の弟教盛の長子忠快法印塔。平忠快は、壇ノ浦の戦いで捕虜となり伊豆国へ配流されたが、頼朝や御家人から帰依を受けたという稀有な人物。しかし、なぜ弟の長子の墓がここにあるのだろうか?よく分からん。

右は、圓實法眼宝篋印塔というもの。宝篋印塔は礼拝供養することで、現世で犯した罪を消し、極楽浄土へ往生できるとされる。

 

平の清盛公墓所
 八棟寺殿 平相国廟

平安の末期(養和元年、西暦1181)平清盛公の薨去によって能福寺の寺領内にあった太平山八棟寺に公の墓所平相國廟が造立されたと云う。
しかし、平家滅亡と同時にことごとく破壊され、能福寺を灰燼に帰した。以後 廟は再建されることなく、その存在すら忘れ去られていた。
百余年後の弘安九年(1286)二月、平家一門の栄枯盛衰を哀れんだ時の執権北条貞時公は、その近くに一基の石塔を建て、清盛公の霊を弔った、と能福寺の古文書に見える。

現在に伝わる清盛塚十三重塔(県指定重文)がそれである。
今、諸々の古記録文献には「京・愛宕山にて火葬荼毘に付し圓實法眼全骨を福原に持ち帰り経ヶ島に納め・・・(又は)「大輪田の法華堂に納め・・・」(又は)「能福寺の東北に埋骨・・・」云々とあるところから、遷都をも決断したほど兵庫の地を愛した清盛公の遺言に依り全骨を福原に持ち帰ったことが史実ならば、歴史上、真の墓は、かって平安末期、能福寺々領内にあった平相國廟と考えられる。

奇しくも本年清盛公の八百回大遠忌を迎えるにあたり平家物語類書にも有名な平相國廟を建立復興し、併せて圓實法眼宝篋印塔、忠快法印塔を合祠した。

現在わが国最大の国際貿易港として、繁盛せる神戸港湾の基礎を造った根元としての平清盛公に対して今、報恩謝徳意を込めて、ここに安らかにお眠りになる廟を造り奉る。

願わくば日本の国土と民衆を兵庫県民を神戸市民を守護したまえ

昭和五十五年二月 能福寺第二十四世貫主 弘善 識

右  圓實法眼宝篋印塔 鎌倉時代
能福寺住職名門徳大寺家出身 清盛公剃髪出家の師匠

左 忠快法印塔(九重塔)  鎌倉時代
清盛公の弟教盛の長子、圓實法眼の弟子にして当山住職。廟前にて有名な追善管弦法要を修し天台密教の学僧にして比叡山に小川流一派の灌室を興す。

平家源氏将兵戦没者五輪供養塔

伝教大師記念講堂の入口横に並べられている小さな石碑が気になった。遠くから見ると、転がしているようにも見える。

 

近づいてみると、「平家源氏将兵戦没者五輪供養塔」とある。小さな石碑は、鎌倉時代に一柱、一柱建てられいたのだろうか。戦の中で供養されているものは、まだマシな方だろうか?800年の時を経て、無造作とまでは言わないが、並べられている石碑を見ると、なんとも言えない気持ちになる。

かといって、自分の墓が800年後に残っているのかと考えると、きっとなくなっていることだろう。そういう考えると、こうした状態は、庶民としてはかなりマシな方なのかもしれない。

兵庫大仏

境内の奥に兵庫大仏が鎮座する。ここは鎌倉タイプのオープン型です。

 

なんだか、小さめだなと思いきや、近づいてみると大きいなと感じる。当日は、工事中で間近まで近寄れなかった。

 

能福寺の大仏は日本三大大仏の一つである。

三大◯◯の中では、日本三景が、一番メジャーだろうか。世の中、「夜景」でも「維新」でも「憲法に定める国民の義務」でさえ三つにまとめたくなるものである。この大仏も三大大仏として売っているが、奈良や鎌倉に比べると比較にならないぐらいマイナーである。

兵庫大仏は、1891年(明治24年)5月に建立され、1944年(昭和19年)5月に金属類回収令で解体されて国に供出されるまで日本三大仏の一つに数えられていた。現在の大仏は1991年(平成3年)5月9日に再建されたこともあり、その歴史は残念なものである。

また、たいてい三大◯◯の2つまでは、意見が一致するのだが、3つ目となるとマイナーである。そのため、三大◯◯の3つ目が世界中にあったりする。この大仏もそんな感じがする。

現在の三大大仏は、高岡大仏や岐阜大仏というものがあるらしい。残念ながら、私は、今回調べて初めて知った。覚えておきます。

ジョセフ・ヒコの日本初の英文石碑

わが国初の英文石碑

我が国の新聞の父として、アメリカ初代大統領リンカーンと握手した唯一の日本人がジェセフ・ヒコである。ジョセフ・ヒコは黒船で下田に来航したペリー提督の通訳も務めていた。その後、神戸に多数来航した外国人が兵庫大仏に参拝した際、当時の住職がジョセフ・ヒコに依頼して寺の縁起を英訳したものがこの碑である。

 

最初見たときは、上部の英字に気づかなかった。英語は文字が多くなりがちなので、文字を小さくせざるを得ない。石碑には不利ですね。まあ、諸外国でもやっていることなのだから、慣れの問題か?

 

拡大すると読めなくはない。小さい文字は彫りが浅くなるので陰影が分かりづらくなる。仕方なし。

能福寺の利用案内とアクセス

拝観無料

JR山陽線兵庫駅から900m。地下鉄海岸線中央市場前駅から400mほど。観光客もそう多くないところです。

歩いているとふと大仏が現れる感じです。

最後に

平清盛像全身

清盛ゆかりの寺である能福寺は、清盛公が剃髪・出家した寺であり、清盛公の墓もある。この他にも兵庫大仏はもちろんペリーと黒船でやってきたジョセフ・ヒコによる日本最初の英文石碑や兵庫の豪商北風正浩顕彰碑、明治元年の神戸事件で切腹した滝善三郎碑など見どころが多い寺院です。もっとメジャーになっていい気がします。

なかでも、平家源氏将兵戦没者五輪供養塔が建物の横に並べられているさまが、一番の見所かもしれません。なんだか、悲しくなってきましたが、盛者必衰の理だろうか。思わず手を合わせました。

※2023.1訪問

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