【蓮の池】一ノ谷の戦いで平重衡が西へ落ち延びるときに立ち寄った蓮の池

史跡蓮の池記念碑 一ノ谷の戦い
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蓮の池とは?

神戸市長田区に蓮池町という地名がありるが、この蓮池という地名は遠くは奈良時代に遡る歴史がある。

車で走っていると、ふと通り過ぎてしまう公園であるが、飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍した仏教僧行基が作ったと言われています。

その後、この池は、蓮の池と呼ばれ昭和6年までこの地にあったとのことです。街の発展に伴い、池を埋めてしまったのでしょうが、この池は「平家物語」、「増鏡」、「太平記」などにも登場します。このことからも、この蓮の池は当時の日本では有数の名所だったようです。

「平家物語」には平重衡が西へ落ちていくのを「湊河・かるも河をもうちわたり、蓮の池をば馬手にみて、駒の林を弓手になし、板宿・須磨をもうちすぎて、西へさいてど落ちたまふ」と書かれています。

往時の蓮の池を目にしたかった。

#2021年12月探訪

史跡 蓮の池(西代蓮池公園)

蓮の池は公園の名前として残っています。現在は、西代蓮池公園(にしだいはすいけこうえん)という名前の大きな公園の中に小さな池が作られています。

利用案内とアクセス

無料

散策自由

蓮の池の跡にはジョギングコースなどが整備されている大きな公園になっています。

往時を偲ぶには想像力がかなり必要な状態です。

西隣には、神戸常盤アリーナもあり、この辺り一帯はスポーツゾーンとして整備されているようです。

かつて西国街道と呼ばれていた道は、大きな県道になっており、交通量がとても多い道です。交通量の多さは今も昔も変わりません。

蓮の池の誕生

蓮の池案内図

少々痛みを感じる「蓮の池」の案内看板がありました。

長田(ながた)の西の方にあり。広さ四百五十畝。むかし行基(ぎょうき)の掘らしめ、農業旱魃の愁いを除かん為なり。

蓮一株を植え給ひ、浄土の八功徳池(はっくどくち)になぞらえ給う。一説には小松内府重盛(こまつだいふしげもり)の家臣蓮池権頭家綱(はすいけごんのかみいえつな)戦死の所なるによって、蓮の池といふとぞ。

地図にはとても興味をそそられますが、地名が非常に読みづらい。劣化も理由のひとつですが、なかなか難しい案内看板です。

地図の左側に見えている神社は、「須磨のごんげんさん」と呼ばれる板宿の権現宮證誠神社のようです。辺り一帯は、田んぼのようです。

少なくとも現在の状況とはまったく異なる地図です。

蓮の池は西国街道沿いにありました

西代蓮池公園入口

この西代蓮池公園は阪神大震災後に作られました。

昭和6年に蓮の池が埋められたあと、野球場やプールなどがある公園が作られたようですが、公園が作られるころには、蓮の池は跡形もなかったようです。その後、阪神大震災を経て、現在の西代蓮池公園が整備されたようです。

公園の入口には旧西国街道がここにあったことが紹介されています。

旧西国街道案内図

旧西国街道 ~大路(おおみち)~

中央幹線を挟んで南北両側に「大路通(おおみちおどり)」という町名があります。この町名の由来は「西国街道」だといわれています。

街道は、時代とともにその役割や姿を変化させてきました。古代(律令時代)には街道の重要度や利用頻度などから大路(おおみち)・中路(なかみち)・小路(こみち)に分けられ、そのうち山陽道は唯一の「大路」でした。

その後、中世(鎌倉・室町)時代には公定のルートとしての山陽道は存在しませんが、近世(江戸時代)に入ると、江戸幕府は参勤交代のために五街道と脇街道を整備しました。

西国街道は脇街道の一つで、西国大名の参勤交代に使われました。

また、道幅も山陽道は九から十二メートルだったと言われ、西国街道と呼ばれるころには、三から六メートルぐらいだったそうです。

現在の中央幹線は、道幅五十メートルの幹線道路となっています。

大略すると、「かつては大幹線だった西国街道だったが、江戸時代は今ひとつの道幅になった。現在は、大幹線のころよりもはるかに広い道になっている。」という感じです。

旧西国街道案内図の地図

案内板右下の地図の拡大写真です。

周辺には長田神社もあり、源平にまつわる史跡も多く散歩が楽しいところです。

旧西国街道案内図の図絵

案内板左下の図絵の拡大写真です。

最初に紹介した図絵の写真と同じものですが、こちらも判読しにくい。

史跡蓮の池阯

入口から公園に入ると「史跡 蓮の池阯」の碑が建てられています。

蓮の池跡の案内板

こちらも太陽の角度や強さ加減によっては、読みにくいのですが、なんとか読んでみます。

蓮の池跡

昭和六年まで、ここには「蓮の池」という四町二反(約四ヘクタール余り)の大きな池がありました。奈良時代に周辺の田に農業用水を供給する、ため池として作られたのので、僧行基が作ったといういい伝えがあります。池が完成したとき「蓮の花が美しく咲いているという極楽浄土の池のように、この池にも蓮の花が咲き乱れ、この水で人々が豊かになるように」と願って、行基は一株の蓮の花を池に投げ入れたといわれます。やがて池には、その言葉通り蓮の花がたくさん咲き、人々はこの池を「蓮の池」と呼ぶよになったそうです。

「蓮の池」の南には山陽道が通っていたため、「平家物語」、「増鏡」、「太平記」などの古典に「蓮の池」がたびたび出てきます。たとえば「平家物語」には平重衡が西へ落ちていくのを「湊河・かるも河をもうちわたり、蓮の池をば馬手にみて、駒の林を弓手になし、板宿・須磨をもうちすぎて、西へさいてど落ちたまふ」と書かれています。

長田区役所

「平家物語」、「増鏡」、「太平記」など各時代の古典に出てくるほど当時の日本人が常識として知っているような有名な池だったようです。蓮の名所として有名だったのでしょう。

この蓮の池を一ノ谷の合戦で落ち延びる平重衡が通ったことが平家物語に書かれています。その後、須磨で囚われてしまうのです。

須磨には、平重衡がとらわれた松があったところが伝えられています。

【とらわれの松跡】平重衡が松の根に腰掛け無念の涙を流したという
平重衡とらわれの松とは?寿永3年(1184)2月の一ノ谷の戦いにおいて、生田口で敗れた平家の副大将平重衡は須磨まで逃れてきたが、無念にもこの地で捕虜となった。松の根に腰掛け無念の涙を流す重衡を見て、村人が濁り酒をさしあげたところ、たいそう喜...

松の下の史跡蓮の池記念碑

公園の真ん中に大きな松と碑がありました。

史跡蓮の池記念碑

半ば埋まり気味ですが、「史跡 蓮の池」と書かれています。

蓮の池が復元された池?

その横の池です。

周りに田畑がないので、蓮の池の使命を終えたことにより池が潰されたのでしょうが、当時のことを伝えるために池が作られたようです。

訪れた時期が冬だったので、水もわずかしかありません。蓮があるのかどうか分かりませんが、きっとあるのでしょう。蓮の池としては、2代目になるのかな。

西代蓮池公園から換気塔を望む

蓮の池から北(山手)を望んでいます。

山手には阪神高速神戸山手線の送気塔がそびえ立っています。というのも、この公園の地下には阪神高速道路が走っているのです。もともとは、西国街道沿いにあった蓮の池だったのですが、今では高速道路の上に蓮の池があるというおそらく行基さえも想定の範囲外の状態になっています。歴史の流れは濁流です。

常磐アリーナ

公園の西には神戸常盤アリーナがあります。

プールや体育館などを有する総合スポーツ施設です。この公園も神戸常盤アリーナと一体として機能しているようです。

西代蓮池公園駐車場

駐車場は一日500円です。

さらに、24時間営業です。公園の駐車場にしては、営業時間が長いです。駐車場の名前は西代公園駐車場です。

蓮の池の周辺

池田南部公会堂

公園の南側にあった「池田南部公会堂」です。

「池田」の「池」は、蓮池の池でしょう。「池田」の「田」は、このあたりが田んぼだらけだったことを伺わせます。

山陽電車本社ビル

道を挟んで公園のすぐ西に山陽電車の本社ビルと西代駅があります。

現在の西代駅は特急も停まらないし交通の要衝とはいえないが、山陽電車を敷設する際は交通の要衝だったのでしょう。今でも本社ビルはここ西代にあるのです。山陽電車は西代駅が起点になっています。

蓮池町自治会

西代蓮池公園から幹線沿いに東に歩いたところの広い歩道です。

「蓮池町自治会」という名前に往時を偲ばせます。

ただ、この大きな歩道は私有地なんですね。自治会の所有なんでしょうか。

というのもこのあたりは、先の阪神大震災で大きな被害を受け、かなりの面積を焼失したところです。歴史にifはありませんが、蓮の池が残っていたら、池の水で被害を減らすことができたのかもしれません。

鳥瞰散歩(読み物)|アジア航測|空間情報コンサルタント
鳥瞰散歩(読み物)

アジア航測株式会社さんの「阪神・淡路大震災から25年」のページです。

特に長田地区(1995年1月20日撮影)の写真は、当時のこのあたりの状況がよく分かる写真です。

最後に

平清盛像全身

蓮の池は、跡形もないと言っていいような状態ですが、平家物語で平重衡が西へ落ち延びる際に登場するなど、当時は名所だったことが伺われます。

源平合戦に華々しく登場する場所ではありませんが、源平以前から長らく歴史の舞台であったこの地を散歩すると歴史の息吹を感じとることができます。

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