鵯越の逆落としとは?
ご存知のとおり源平合戦のメインイベントの一つです。
源義経の軍勢が断崖絶壁を駆け下り、背後の山から襲っては来ないと油断していた平家が大いに破られて敗走した戦いです。
現場を見ての正直な感想です。「逆落とし」の現場とされているところを馬で下りることは無理です。きっと違う場所で行われたと勝手に考えてみました。
古い史跡ははっきり分かっていないことが多いので、自由に考えることができます。こうした勝手な想像も史跡を散歩する醍醐味です。
#2022年12月探訪
逆落とし(一ノ谷)の利用案内とアクセス
利用時間 24時間散策自由
入場料 無料
「逆落とし」へは市バスが便利です。終点「須磨一の谷」バス停から歩いて向かいます。須磨浦公園を通り抜けて坂の上にある一ノ谷町の「一の谷公園」を通ってから、さらに上っていくと登山道へと続き、その先に「逆落とし」と一ノ谷展望台があります。
市バスの終点「須磨一の谷」バス停から「逆落とし」まで1kmほどですが、距離よりも標高差の方が重要な要素です。ちなみに、「逆落とし」の標高は海抜120mほどです。道が整備されているといっても義経を侮ってはいけません。信じられないところから馬で下りています。結構な山登りになります。それなりの心構えを持って向かいましょう。
まずは「一の谷公園」へ向かう
悪いことは言いませんので、「逆落とし」に歩いて行くなら近道を通りましょう。しかし、この近道の「経路1」は、GoogleMapで検索しても出てきません。近道については、別にまとめています。こちらをご覧ください。

一の谷公園には、安徳宮があります。「逆落とし」とセットで訪ねましょう。

「逆落とし」への山道
一の谷公園から少し西に進んだ後に山側に進むと道路の突き当りに登山道の入口があります。
この住宅街の中の道も急傾斜路です。この先の登山道のほうが傾斜が楽なところも多いぐらいです。現代人も義経に負けずなかなかのものです。
工事現場の仮囲いがあったりします。逆落としの案内標識などは見当たりません。ほんとにここで合ってるのかな?と心配になる山道です。
立派な竹が鬱蒼と茂っています。かなり太くて丈夫そうな竹です。
なぜか、その中にシュロの木もたくさん生えています。義経は見ていなかったであろうと思われる景色です。
少し歩くと視界が開けてきます。
右側のブロック積みの建物らしきものはトイレかと思いきや廃墟でした。トイレはありません。
視界が広がり、整備された石段が現れました。手すりがあるのは楽でいいです。
「逆落とし」で逆落としの場所を考える
進行方向右側が急に開けました。ここがかの有名な「鵯越の逆落とし」の現場とされているところです。
尾根道ですら凄まじい上り階段ですが、崖といってもいい青矢印のルートで義経は駆け下っていったとのことです。う~ん、写真で見ても無理筋と感じます。現代の土木工事により擁壁も造られていますが、源平合戦当時は、岩が多かったのでしょうか?木が茂っていたら馬で下りるなど不可能でしょう。でも、確かにシカなら下りてきそうな感じです。
「シカが下りることができて馬が下りられないはずがない!」と義経はパワハラまがいなことを言いだして下りていったようですが、よくもまあ部下たちも頑張ったものです。実際、大将の義経が下りていくんだから付いていくしかないのですが、そうさせた義経もすごい。
あと、畠山重忠は馬を損ねてはならじと馬を背負って岩場を駆け下ったという話がありますが、ほんとにそんな奴がいたのでしょうか?世界の歴史でも馬を背負ったことがあるのは畠山重忠だけじゃないでしょうか?当時の馬が今よりも小さかったとはいえ、とんでもないヤツです。もっと注目されていい武将かもしれません。
あと、弁慶も釣り鐘をぶら下げて逆落としをしたんでしょうね。すごいやつらばっかりです。こんな超人を揃えていては、平家が勝てるわけがないと思います。
しかし、ほんとうにこんなところを駆け下ったんでしょうかね?人間でも後ろ向きじゃないと下りられなさそうなレベルです。
「逆落とし」から東南東(須磨海岸と和田岬方面)を望む。
「平家物語」によると、義経たちは崖を駆け下ってから、さらに急峻な岩場に臨み躊躇したあと、もう一度下ったという記載があります。現在伝えられている「逆落とし」は、最初の崖が一番急峻です。この下の崖も決して緩やかではありませんが、1段目を駆け下ることができるのであれば、2段目で怯むことはないでしょう。
もう少し上がったところから須磨海岸方面を見ています。当時は、木がもっと茂っていたと思います。そうでないと、海側の平家から丸見えです。
逆に木々が多ければ、崖を馬で下りるのは至難の業ということにもなります。
一ノ谷展望台
「逆落とし」の現場から少し上ると一ノ谷展望台があります。なにがどう展望台なのか、分かりませんでした。草木が生い茂って景色はよく見えません・・・ベンチも朽ちているし・・・
さらに山側の尾根道を進んでみました。
ハイカーが多いのか歩きやすい道です。義経軍もこの道を進軍してきたのでしょうか。
尾根道から須磨の海を望みます。写真では海が見えづらいのですが、肉眼では木々の間から海が見えます。きっと義経たちもこのような景色の中に平家の陣を垣間見たのではないでしょうか?
これだけ木々が生い茂っていると平家側からはこちらを見ることはできないでしょう。
現代地図と重ねて一ノ谷の合戦を考えてみる
一ノ谷の戦い
改めてマクロの目で考えます。現在の神戸の地図に一ノ谷の合戦の状況を重ねてみました。
現在の神戸は埋め立てが進むなどして山から海までの間が広くなっていることを頭に入れておかねばなりません。それでも、今の神戸も山が海に迫り、街は東西に細長く形成されています。六甲山に半ばめり込むように位置している新神戸駅から海までの距離は2km足らずです。源平合戦の時代はさらに狭かったと考えられます。
平家は福原を中心に、生田口、塩屋口、夢野口で守りを固めており、源氏は攻めあぐねていました。
福原は現在の新開地あたりです。現在の福原に福原京の面影は感じられません。歩きタバコも多い汚い街です。とても残念です。
生田口は、京からの最短ルートです。ここが福原の表玄関です。生田の森(現在の三宮あたり)で戦闘が繰り広げられました。三宮駅のすぐ北側にある生田神社の周辺は繁華街になっています。
夢野口は、きれいな地名ですが、神戸電鉄長田駅のあたりにある夢野町などにその名が残っており、現在も山を越えていく西神戸道路の入口が近くにあります。ちなみに、夢野台高校は、漫画に出てきそうな名前の学校で公立高校とは思えないですね。
塩屋口は、西の明石・垂水方面から福原に向かう海岸沿いの道ですが、鉢伏山が須磨の海岸にせり出し隘路になっています。現在ここは、国道2号線のほかにJRと山陽電車が走っていますが、台風が来ると潮が巻き上げて最初に運休や通行止めが発生する困った場所で、今でも地形的な要害になっています。また、山陽電車須磨浦公園駅からはロープウエイが直結しており鉢伏山に登ることができます。いかに山が海に迫っているかが分かります。
この西からの敵に備えて塩屋口を守る平家の軍勢に、北側の山から崖(一ノ谷)を駆け下りてきた義経軍が襲いかかったのでした。このような奇襲を受けては平家が総崩れになるのも無理もありません。
鵯越(ひよどりごえ)は一ノ谷からかなり遠い
「”鵯越”の逆落とし」ですので、”鵯越”で戦があったと見るべきですが、「鵯越」と「一ノ谷」はかなり遠いのです。直線距離で8kmほど離れているでしょうか。
また、「鵯越」を冠する「鵯越町」「鵯越駅」「鵯越墓園」はまったく違う場所にあるといっていいぐらい広域に散らばっています。それぞれ直線距離で2km以上離れています。平家物語にも出てきますが、「鵯越」という地名は、人馬が通れない急峻な山々に付けられたと見ていいでしょう。「鵯」ぐらいしか越えることができないという意味のようです。また、「鵯越」ではなく単に「鵯」が付く地名となれば、さらに広い範囲でオレンジ点線の枠内で現存します。
「鵯越」の地形がどのぐらい凄まじいのかは、神戸電鉄に乗ればすぐに理解できます。神戸電鉄鵯越駅周辺は急峻な崖が線路に迫り義経が逆落としをしたところはこんなところだろうなあ・・・無理やろ!?と感じるに十分な景色です。しかし、しかしです。鵯越に平家の軍勢はいないのです。
また、夢野口は今の鵯越町あたりになりまが、義経は塩屋口に攻め込んだので、鵯越の逆落としをして一ノ谷に攻め込んだということと矛盾します。
「逆落とし」はどこで行われたか?
逆落としは、鵯越ではなく一ノ谷で行われたという前提で考えます。
青線が源氏の進軍ルート(実線は伝承されているルート、点線は私の仮説ルート)です。ちなみに、水色線は今回の調査ルートです。
地図で見ると私の仮説ルート(青色の点線)の方が現実的ではないでしょうか?さらに、一ノ谷町に一ノ谷砦(一の谷公園あたりにあった?)というものがあったという説もあるようです。その砦を蹴散らしつつ逆落としを行ったというストーリーは合理的です。
合理的であれば正しいとは言えませんが、かなり正しそうな気がします。
きっと義経は、「鵯越を越えてやってきて一ノ谷の逆落としで平家軍を蹴散らした」のではないでしょうか。短縮すると「鵯越の逆落とし」です。センセーショナルな戦勝は、話を大きくするものです。神戸では鵯越の断崖を知る人が多いだけにそこがクローズアップされて全国に喧伝されたという話だったのでないでしょうか?実際は、鵯越を越えてやってくるだけでも大変なことですからね。
勝手気ままな想像の続きです。この写真は、「逆落とし」が行われたとされている場所です。写真の左方向(青実線矢印)の奈落へと「逆落とし」を決行した伝説ですが、青点線のルート(山道を抜けて一ノ谷町を突っ切る)で海に向かって突撃したのでは?というのが浅はかな仮説です。
この写真の正面の海岸が「戦の濱」です。崖下の平家からは山の上が見えません。義経軍は、海側の敵しか警戒していなかった一ノ谷砦を破ってから逆落としを決行したのでしょう。この崖は高さだけなら「逆落とし」よりもはるかにマシな崖です。
戦の濱に駆け下りたのであれば、「逆落とし」は、私が別にまとめている近道あたりで行われんたのではないでしょうか?ここを下りればそこは「戦の濱」です。
この傾斜路もこれだけ造成していれば、下りれそうな気になるのですが、当時は岩あり木ありの崖なので大変な場所であったことは間違いないでしょう。
この仮説が正しければ、逆落としで駆け下ったところが、平家の陣でもあった戦の濱ですので、平家軍は横っ腹から不意打ちを食らわされるので、総崩れ間違いなしです。

ついでに見つけた史跡
寄手墳・身方墳
「逆落とし」を目指して山道を歩いていると途中に現れます。そろそろ尾根道が見えてきたときに現れた石組みです。
かなり新しい感じだが?
寄手墳・身方墳
大阪河内赤坂村には、これと同型同寸法の寄手塚・身方塚が存在する。
寄手塚を大きく、身方塚を小さくし、敵味方共々ねんごろに供養している。その土地の元所有者でもあり、この下に昭和60年頃まであった海外移住者救済目的の旧南洋植物園のオーナーでもあった塩田商会の塩田富造氏は、この楠木正成の精神に感激し、第2次世界大戦の講和条約発効を記念して、昭和29年4月11日 源平湊川の合戦に係わりのあるここ一ノ谷に寄手墳・身方墳を建立した。
幾多の戦で亡くなられた人々の霊安らかに!
平和な時をいつまでも!平成13年(2001年)3月
兵庫県・神戸市・一ノ谷町二丁目自治会
源平とはまったく関係のないものでした。
「平和な時をいつまでも!」は私も同じ願いです。せっかくこの世に生まれてきたんだし、みんなで笑って過ごしたいです。
最後に
私は義経の逆落としを否定していません。きっとどこか(きっと一ノ谷)で逆落としをやっていると思っています。崖から馬で駆け下りるという発想は素直にすごい。私には当然マネできません。馬好きの人に聞くと、「そんな可哀想なことはできない」と言われました。畠山重忠も同じ気持ちだったのでしょう。
この一ノ谷の戦いで山側から平家を攻撃したということだけでも天才的だと思いますが、義経の才は屋島でも壇ノ浦でもいかんなく発揮されることはみなさんご存知のとおりです。戦うために生まれてきた男と言っても過言ではないでしょう。早逝したことは残念でした。
コメント
こんにちは。「鵯越」で検索してたどり着きました。
現在Eテレで放送している人形劇の平家物語が丁度鵯越の逆落としの回をやっていて、どんなもんかなとおもって検索してみました。
鵯越のルートの考察、とても面白かったです!ご考察の通り、実際は一の谷を降りてきた説のほうがしっくりきます。鵯越の険しさったらないですね!画像を見て驚きました。
当時の馬は小さく義経も小柄だったらしいので小回りはきくのかもしれませんが……馬も鵯越は嫌がるでしょうね。
いずれにしても義経の奇策は今考えてもすごい作戦だなと感心してしまいます。そして実行してしまうのも本当にすごい。
馬を担いで降りる逸話もぶっ飛んでて面白いです笑
あとけっこう有名な鵯越が画像を見る限りあまり史跡として保存されてない感じも驚きました。
清盛の愛した福原も今は面影もないそうで……残念ですが、致し方ないのかもしれませんね。
他にも面白そうな記事があるので読んでみますね、長々と失礼いたしました。
コメントありがとうございます。
鵯越は広いので、保存といってもなかなか難しいかもしれません。
福原の方から見てざっくりと見えるあっちの方の山々程度の認識だったと思いますので、鵯越の範囲も曖昧なんだと思います。
人形劇は私も見ています。
大河ドラマも人形劇でいいと思うぐらい面白いですね。
別件で忙しくほったらかしになっているサイトですが、そろそろ復活させようと思っています。
ネタがたくさんあるのですが、まとめきれていません。
すぐには無理ですが、しばらくしてから覗いていただけたら幸いです。